ほら、花が咲いているよ

死を通して、命と悲しみを考えるノート

ほら、花が咲いているよ

彼女は、僕の誕生日の一日前に亡くなった。

 

誕生日が来るたびに、「この季節か」って思う。7年近くたった今でもそう思う。きっと死ぬまで。

 

誕生日になっても彼女からのLINEは来なかった。忙しいとは聞いていたけど、誕生日おめでとうくらいは言ってほしかったな、なんて思っていた。

彼女が亡くなったことを聞いたのは、それから四日後だった。共通の友人から唐突に連絡が来て、彼女が亡くなったことを知った。

アルバイトに向かう途中だった。胸が張り裂けそうな思いで、とりあえずその日の業務を終わらせ、呆然として家に帰ったんだろう。

 

実感はなかった。彼女とは別々の大学で、プチ遠距離みたいな距離感だった。でも1か月に一度くらいのペースで会っていた。先月も会っていたし、休みになったら遊びに行く約束もしていた。

元気だったのに。急に居なくなってしまうなんて。それが信じられなくて、ほんとに実感が湧かなかった。盛大な趣味の悪いドッキリであってくれと心から願った。

 

でもそんなことをする人じゃない。受け入れるしかない。彼女が亡くなってしまってからは、夜な夜な眠れずに苦しくて長い果てしない時間を過ごした。

 

 

7年前だからこそこうやって振り返れる。そもそもなんでこのタイミングで記録をしようと思ったかというと、向き合いたい。と思ったから。今でも悲しくて心が引き裂かれる思いになることもある。眠れなくなることもあるけど、それでもあの頃に比べたらよっぽど立ち直ったと思う。だからこそ向き合いたい。向き合って自分の中の思いを掘り起こして形にしたい。今の自分は、7年分の気持ちが雑多に積み重なって、ふたをしてる状態みたいなものだと思う。あの時の感情を一つずつ取り出して、地面に埋めてあげたい。そして自分の中で彼女を永遠に生かしてあげたい。

 

 

お通夜もお葬式もすぐだった。あんまり覚えていない。みんな泣いていて、高校の友達も先生もたくさんいて、担任だった先生が「こういう形で再会するのは本当に悲しいね」と泣いていた。きっと泣かないようにしなきゃ。と思っていたと思う。でも正直あんまり覚えていない。ただ、誰ともあんまり話す気もなれなかったことは覚えている。うっすら彼女の好きだった音楽が流れていて、写真と帽子が飾ってあって。断片的な記憶。

 

 

高校の友達はみんな僕らが付き合っていることを知っていた。少なくともお葬式に来ていたみんなは知っていると思う。先生たちも多分知っていた。友達もきっとなんて声を掛けたらいいのかわかんなかったんだろう。その気持ちはよくわかる。

 

 

写真を見返して、LINEを見返して、もう二度と既読になることはないメッセージをさかのぼり続けていた。6畳の1Kの蒸し暑いロフトの上。眠れずにただ涙だけ流れた。

 

高校3年の夏に付き合った。笑顔がかわいくて、明るくて真面目で誰からも好かれるような子だった。花で例えるなら?って周りの人に聞いてみたら、きっと7割はヒマワリ、2割はサクラ、残りがマリーゴールドとか、そんな風に言うんじゃないかっていう、そんな子だった。

 

花が急に散ってしまえば、残された心には何も残らない。正直その一年間はあんまり記憶がない。毎日がつらかった。今思うときっとつらいと感じていたのは主に次のことだと思う。

①彼女にもう会えないこと、会いたい、声が聞きたい。一人にしないでほしい。

②自分の世界は崩壊したのに周りの世界は何事もなく進んでいること、世界に置いていかれる感覚。

③いなくなってしまった実感がない、さよならがちゃんとできていない。

他にもあったかもしれないが、大体こんな感じだと思う。

中でも②は意外にもつらかった。彼女のお葬式の次の日も、世界はいつもの一日が続いていた。自分の世界は真っ暗になったのに。

 

ひきこもってしまうことも考えたけど、社会とのつながりは絶ってはいけないと何かで読んで、頑張って大学も休まずに行った。休日も家に一人で居たくなくて、外にいた。夜は家に居たくなくてふらふら海まで散歩しに行った。バイトもいつも通り行っていた。つらかったなあ。

 

 

たくさん泣いた。毎日泣いた。1年経ってようやく泣かない日が出てきた。

「時間が解決する」これは本当。体感的には痛みは3か月スパンで癒えていった気がする。最初の3か月は傷口もふさがっていない。血もドバドバ。次の3か月はかさぶたになりつつあるけど、固まり切っていない。常に出血している。次の3か月は出血が少なくなってきたような状態。次の3か月でかさぶたがようやく完成。でも剥けたら大量出血。みたいなそんなイメージです。

 

苦しかったし正直死にたかった。一番つらかったし、あの時と比べたら今後どんなことも乗り越えられるような気がしている。ただ、その痛みがなくなってしまうのも怖かった。彼女が亡くなったことを心から悲しんでいるその気持ちが薄まってしまっているのではないかと思うと怖かった。

よく聞いていた平井堅さんの「瞳をとじて」の歌詞そのままの気持ちだった。

 

いつかは君のこと なにも感じなくなるのかな 今の痛み抱いて 眠る方がまだいいかな

 

確実に忘れていく自分が嫌だったし怖かった。でも何もできなかった記憶がある。記憶が崩れていくような、手のひらから砂がこぼれていくような。どれだけ必死に握りしめても手の上からこぼれて、風に吹かれて行ってしまう記憶たち。声もしぐさも顔も細かい表情もにおいも触ったときの感触も、何もかも輪郭がぼやけていった。痛みが癒えていくのと同じ量だけ、彼女はぼやけていった。写真の中だけでしか彼女の顔を見ることができない。どんな声をしてた?どんなにおいがした?抱きしめたときの感触は?それらは7年経っても相変わらず失われたまま。きっといつか思い出せるということにだけ希望をもっている。

 

死にたかったけど、死ぬだけの度胸はなかった。安楽死ができるなら、ボタン一つだけで苦しくもいた苦も無く死ぬことができるのなら、ボタンを押していたかもしれない。でも、「あなたが死ぬということは、同じ苦しみをほかの人に押し付けるということ」という言葉を見て、死ぬことを考えることはやめた。生きていかねばならない。彼女のことは一生背負って生きていく。というか一緒に生きていくと決めた。

 

その決断をしたのは結構ナイスだったと思う。たぶんその決断はまだまだ出血ドバドバ期の6か月経たないくらいの時だった気がする。その思いは今も変わらない。彼女が目にしたことのないすごい景色を、僕の記憶を視界を通してみてほしい。いろんなものを見てお土産にしようと思うことが、僕自身の生きるエネルギーになった。

 

彼女は僕にとっての花。だからブログの名前は「ほら、花が咲いているよ」にした。特定の意味はない。いろんな含みを持っていいと思う。僕の花はきっと散ってなんかいない。きっとそばで咲いていてくれていると信じている。(たまに彼女には見せられないこともあるが…)

 

あなたの花は誰ですか。そしてその花はきっと大切な人の近くでずっと咲いているんだと僕は信じてます。7年経ってもそれは変わりません。

 

ブログを書くにあたって…

このブログはもうなくなってしまった大切な人を思うことで、命について、自分の生き方について、悲しみと喜びについて…。頭をめぐるそのようなことを記録しておくものとしたい。

 

詳しいプロフィールを記載するのは避けるが、自分のことを個人的に知る人の目に留まればすぐに誰のことだとわかってしまうような、そんなことも書くかもしれない。

 

自分は今生きている。普通に食べて寝て仕事をして日々の生活費を稼いでいる。友人と遊ぶこともあれば、年末には家族のいる家に帰ることもある。女の子と遊ぶこともあれば、一人の時間を満喫することもしている。毎日を当たり前のように生きているが、この当たり前を享受することが実はだいぶ危うかったのかもしれないと今になって思うこともある。

 

自分は、同年代の人に比べたら死による別れを多く経験してきたという自負がある。

それが決して好ましいことではないのかもしれないが、こればっかりは事実なのでしょうがないと思っている。

 

今まで、祖父、祖母、父、恋人、ペットとお別れしてきた。最初のお別れは父方の祖父。自分が小学校6年生の時だった。学校で何やらの記念式典があったが、欠席してお葬式に参列した記憶がある。

祖父とはあまり何もしゃべらなかった。もとからそこまで多くしゃべる人ではなかったんだろうとは思う。自分の父と祖父がしゃべっているところもあまり記憶がない。祖父がしゃべらない人というより、同居している自分の叔父(父の兄)がしゃべる人過ぎたということもあるかもしれない。父方の実家に行くと、大概おじさんのマシンガントークを浴びるのが恒例だった。結構笑えるし話も上手いから面白いんだけど、父方の一族は8割おしゃべりで2割が静かめ系、自分や父親はその2割の方なので時折マシンガントークが大変な時もあった。祖父もそのタイプに見えたけど、どうやら言うときにはあれこれ言うタイプだったらしい。

あまりしゃべったことがなかったためか、泣いたりとか悲しくてしょうがないということはあまりなかった。もちろん悲しいし寂しいんだけれども、それは心の奥から絞り出すようなものではなく、ただ頭で理解しているだけのような気がしていた。いい歳だったし、入退院を繰り返していたので、いきなり、という感じでもなかった。

 

部屋の奥、振り子の時計の下の座椅子。祖父がいつもいたそのポジションは、今度は祖母が座るようになっていた。

 

祖母は、祖父よりはいろいろ話をしたんだと思う。「おまはんたぁ」(お前たち)が口癖だった。背丈が小さい人で、当時中学生で身長がぐんぐん伸びていた自分はあっという間におばあちゃんより大きくなってしまった。帰るたびにたくさんのお年玉とお小遣いをくれた。いつも行くと「あれをやらなかんなぁ」とか言って、椅子から立ち上がって奥の部屋からゆっくりゆっくり封筒をとってきてくれていた。

祖父もそうだったが、耳が遠くてずっと補聴器をつけていて、家族の話にも「なんやった?」と聞き返すことが多く、そのたびに従妹のおねえさんが「〇〇やよ!おばあちゃん!」と通訳していた。

 

おばあちゃんも入退院をするようになり、認知症も進んできていた。お見舞いに行ったときに、「あんたは誰やね?」と聞かれたりもした。

おばあちゃんが亡くなったときも頭だけで理解しているようなそんな感じだった。というより、悲しんでいるより周りがあれこれあわただしくしているので、中学生ながらに何か手伝わなければという方に思考が至り、何やら手伝いで忙しくしていた。今思うとなんでそんな考えになったのかは謎である。

 

母方の祖父母は、なんだかんだまだ存命である。いい歳になってきていて本人たちは「まあ、いつまで生きとるかわからんしなぁ」なんて冗談なんだか本気なんだかわかんないことを言ったりしている。「頼むよ、少なくとも120までは生きてもらわないと」って其のたびに返してるんだけど。

 

父が亡くなったのは、自分が高校2年生の時だった。このことはさすがに自分の中で大きな出来事だったので、そのことはまた後日詳しく話すこともあるかもしれない。

 

そして恋人が亡くなった。20歳間近の時。この出来事は父との別れ以上に自分に大きな影響があった。きっと彼女の話をすることが圧倒的に多いと思う。

 

そして、10歳の時から飼っていた犬が亡くなった。これが大体2年位前の話。実家が急に広くなった気がして本当に寂しかった。このこともどこかで話すかもしれない。

 

亡くなった人に思いをはせるとき何とも言えない気持ちになる。日々あわただしく生きていても彼らを思い出さない日はない。時間がたって、声やしぐさの記憶に靄がかかり始める。笑顔も表情も写真の中だけのものになっていってしまう。

彼らについて思うときに、自分が生きているということも同時に感じている。彼らのいない世界を生きていかないといけないということ。命って何だろうか、自分がなんのために生きているのか、彼らとまた会えるのだろうか、いろいろな思いが交錯する。ただ、そんな時に実感することがある。それは、考えられるということは生きているということである。だからこそそれを記録しようと考えた。死を通して考えたことの記録である。

 

この記録の意味は主に二つである。一つは自分の心の中の整理をすること。自分の思いを言語化することで自分自身をメタ認知することである。これから生きていかねばならない。そのためのヒントを思考の整理から得たいというねらいがある。二つ目は、あわよくば、死によって悲しみや苦しみ、いろいろなことを思っている人の目に留まること。それにどんな意味があるかはわからない。自分の文章を読んで救われる人がいてくれたらいいのに、なんてことも、傲慢ながら心のどこかで思ったりもしている。同じように誰かが自分の気持ちを整理することを決意するきっかけになる、なんてことも期待していないといえば嘘になる。逆に自分が今まで思いもよらなかった考えに触れて、新たな道が開けるなんてこともあったらいいのになと思ったり思わなかったり。とはいえ一つ目の目的が達成されればそれでよいので、ふたつめはあくまでおまけなのだが、まぁ、そんな感じである。

 

では。